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被災地支援 2011(東日本大震災)JMAT 2011

静岡県医師会医療チーム岩手県派遣団(静岡市清水医師会)

(静岡市清水医師会100年史に掲載する内容です)
震災の写真があります。閲覧にご注意下さい。
01_静岡県医師会医療チーム岩手県派遣団活動報告_清水医師会100年史_2_pptx.pdf 完全ダウンロード
02_静岡県医師会医療チーム岩手県派遣団活動報告_清水医師会100年史_文章_2.pdf 完全ダウンロード

 静岡市清水医師会は、平成23年3月11日に発生した東日本大地震(東北地方太平洋沖地震)による未曽有の被害に対し、医師会会員を中心に医師・看護師・コメディカル総勢45名のキャラバンを組織し、 3月19日〜21日に岩手県の被災地に医療支援に向かった。本稿は、その活動について報告した静岡県医師会発行「東日本大震災 静岡県医師会災害医療活動報告書」4〜12ページの原文を一部修正したものであり、参加者の写真を含め出来るだけ多くの資料を掲載した。
  令和6年1月、本稿修正時に能登半島地震が発生しており、数少ない道路の寸断や唯一の空港の滑走路亀裂など東日本大地震とは大きく異なる状況から、被災地支援は困難を極めている。数十年前より課題となっている東海地震への備えという点からも、本稿が被災地支援の在り方・被災地となった場合の支援の受け方の参考となれば幸いである。

静岡県医師会医療チーム岩手県派遣団 結成までの経緯
 発端は、平成23年3月14日(月)(発災3日後)の静岡県警察協力医会あての死体検案医の派遣要請であった。当時、同会の理事を務めていた私は、早速県内の警察協力医の派遣の手配を開始したが、翌15日(火)、日本医師会常任理事・石川広己先生や現地医師会とのやり取りの中で、ご遺体は膨大であるが現地派遣警察官の不足のため検案医の受け入れ体制に限界があることや、被災後約1週間の現時点において最も求められているのはむしろ避難所の医療支援であることが伝えられた。
 地震発生当初からすでに多くの災害時医療チーム(DMAT)が各県より投入され、急性期医療は整備され一部撤退を始めている段階であり、現在は高血圧や慢性疾患の患者さんが受診できず薬が不足していることや、避難所での感染症の流行が危惧されているとのことであった。
 阪神大震災で被災地支援に赴いたのは多くが病院の勤務医であったが、慢性的な医師不足や今回の震災のスケールを考慮すると、開業医の支援が今こそ求められており、それもすぐに実行にうつすスピードが重要と思われた。
 一方で現地への移動手段が問題であったが、ちょうど私が産業医をつとめている鈴与(株)に相談したところ関連航空会社であるFDA(株)が富士山静岡空港からいわて花巻空港までチャーター機を運航することを快諾してくれた。そこで、3月19日(土曜日)〜21日(連休の月曜日)までの3日間に日程をしぼり、短期間であっても大量の医師・スタッフ・物資を投入することで、被災地の診療を支援することを計画した。週末短期間であれば、かかりつけ患者のため普段の診療を休むことができない開業医であっても支援に参加することができる。たとえ2日間だけでも震災後不眠不休で頑張っておられる東北地方の先生方に少しでも休んで頂ければ意味があるのではないかと考えた。15日(火)夜、当時の清水医師会会長・佐藤敬治先生に相談したところ、ただちに全清水医師会会員に参加募集のFAXをして下さった。そのすぐ後から問い合わせや参加の連絡が数十件、私の元に入り始めた。しかし、実際にFDAの飛行機を飛ばすには静岡県の正式なFDAへの要請が必要であった。
 当初この計画はすんなりと行政に受け入れてはもらえず、16日(水)には一旦計画を断念せざるをえなかった。静岡県の担当者によれば、まず岩手県からの正式な支援要請がきていないこと、従来医療支援とは1週間以上の滞在を要するものであり、今回のような短期間のものは過去に例がなく支援とは認められないというのが主たる理由であった。この緊急時に「正式」とか「従来」といった言葉に大変な違和感を覚えたが、ちょうどその夜に開催されていた静岡市清水医師会総会で昨日からの計画が頓挫したことを報告・謝罪し、私自身は失意のまま上京、翌17日(木)には気持ちを切り替えて東京医科歯科大学で別の仕事に入っていた。しかし、鈴木勝彦静岡県医師会長より携帯電話に連絡が入り、実現の可能性があることを伝えられた。会長の懸命の説得と大村慎一静岡県副知事のご理解により3月17日(木)夕刻に川勝静岡県知事の了解を得て、静岡県が正式にFDAに支援要請を行い計画が実現、準備段階にはいった。私は東京での仕事を切り上げ、17日夜に静岡に戻り、県医師会および県庁を訪ねて主旨の説明や計画の具体案について話し合った。
 日本医師会では、JMAT(日本医師会災害医療チーム、この時創設された)としての派遣先は静岡県の場合本来は福島県であったが(これも3月15日に決まったばかりで我々の動き出しの方が先だったと記憶している)、飛行機での移動や県の支援(静岡県の支援先は岩手県)を考慮し、特例として岩手県への派遣を認定してくれた。
 3月17日夜から静岡市清水区を中心に正式に参加募集したところ、一晩で45名のメンバーが結集(他の郡市医師会への募集も考えていたが、ほぼ清水で予定人数は集まり、その後も問い合わせは続いた)、静岡県医師会医療チーム岩手県派遣団が誕生した。

準備〜出発まで
 3月18日(金)は静岡県医師会・静岡県(健康福祉部を中心とするが飛行機を使用するため多くの部署が関与)・FDA(株)そして岩手県医師会との連絡や調整・諸手続きで多忙をきわめた。もとより本来の外来診療に影響をきたしてはいけない。私も当院スタッフも診療の合間に電話をするのか、電話の合間に診療をするのかといった感じで、悪戦苦闘した。
18日夜には参加メンバーを急遽召集し、事前ミーティングを行った。物資のない現地での活動は完全な自己完結型である必要があり、食料・飲料水の持参はもちろん、現地での移動手段やガソリンの用意も周到にせねばならない。現地で使用するマイクロバスは私の友人である清水銀行の杉山晶彦氏が四方八方に手をまわして、イハラ観光の中型バス1台・マイクロバス2台をなんとか確保してくれた。3台は翌19日(土)朝に清水を出発、先行して現地入りし、FDAの飛行機が到着する頃にはいわて花巻空港で我々45名を待ち構え、その後2日間の足となる。その夜の連絡・手配は深夜過ぎまで続き、当院スタッフは現地入りしない者も含めて皆よく頑張ってくれた。
 19日(土)朝、イハラ観光のバス3台が当院に寄り、飛行機につめない荷物(AEDや心電計やガスコンロなど)を積んで先に出発した。19日昼すぎには、当直などで現地派遣に参加できない先生方が清水医師会からの呼びかけでティッシュペーパーを始めとして多くの支援物資を持ってきて下さった。当院の駐車場が半分ふさがるほどの量であった。また、前夜のミーティングで決まった携行薬剤リストをもとに、スズケン・中北薬品・アルフレッサら医薬品卸会社はわずか半日での薬品集めに奔走し、小児用の薬品をそろえるためにセンター薬局・さかえ薬局をはじめ市内の薬局もよく協力してくれた。
 19日夕方、16時30分に(清水地区の参加者は)清水保健福祉センターを大型バスで出発、18時頃に富士山静岡空港到着、19時より出発式(大村慎一静岡県副知事挨拶・鈴木勝彦静岡県医師会長挨拶・団長挨拶・鈴木與平FDA社長挨拶)を急遽とりおこない、19時35分にFDAの緑の4号機で富士山静岡空港を出発した。

現地での活動
  平成23年3月19日、いわて花巻空港到着後、飛行機から薬剤・支援物資などの荷物をおろして、清水から先にいわて花巻空港に到着して我々を待つバス3台に積み込んだ。いわて花巻空港はFDAの通常の運航地ではなく現地スタッフはいない。まして時間外の夜間飛行であるため、荷物運搬のためのFDAスタッフも静岡から連れてきており、参加者皆が荷物運びを手伝った。その中には、現地まで同乗して我々を見送って下さった大村慎一副知事と鈴木與平FDA社長の姿もあった。その後、庄司産婦人科・庄司潔理事(派遣団には父・庄司靖先生が最高齢で参加された。)の手配でおさえることができた花巻市内の旅館(内陸部は建物の被害は少なく宿泊はできるが、物資が少なく食事はない)に移動した。出発直前の岩手県医師会からの連絡で、久慈・釜石・大船渡の3ヶ所に派遣の予定が、久慈・釜石の2ヶ所に変更。最大の被害を受けている大槌町を含む釜石を重点的にお願いしたいとのこと。中型バス1台を久慈行き、マイクロバス2台を釜石行きとするが、日々変わる状況に対応するため(明日は再び3ヶ所の指示になるかもしれない)、薬品は2分配でなく当初の予定どおり3分配し、バス単位でどこにでも行けるようにしておく必要がある。到着後の旅館の食堂に一旦全ての薬剤をおろし、3分配する作業は深夜まで続いた(わずかな準備期間のためあらかじめ3分配しておくことはできなかった)。
 20日朝6時にバスに薬剤などを積み込み、久慈班は6時45分に出発。釜石行き2台は7時30分に宿を出発した。

釜石・大槌町班
 9時に釜石市保健所(岩手県釜石保健所)に到着。今後の移動と帰りのため今のうちにガソリン補給しておきたいとドライバーの希望があった。東北までの高速のガソリンスタンドでは警察で取得した災害時派遣用の交通許可証で給油できたが、それは高速の上だけの特例であった。市内の一般のガソリンスタンドは長蛇の列となっており、許可車用のスタンドを見つけたが、市の許可がないと給油できないという。保健所で給油許可証を発行してもらい給油。混乱・渋滞する市内での移動には時間がかかった。
 釜石保健所の案内で、災害対策本部に移動。そこはすぐそばまで浸水している釜石駅の近くにあり、2階が釜石医師会の災害対策本部となっていた。釜石医師会災害対策本部長は釜石ファミリークリニックの寺田尚弘医師で、毎日ここで全国から結集したDMATのチームリーダー・ミーティングが行われ、報告を受けるとともに巡回スケジュールの調整を行っていた。巡回スケジュール表にリストアップされた避難所は、行政による設置でなく自然発生的にできた避難所を含め、釜石市内に68ヶ所、大槌町内に34ヶ所ある。それらは自発的な移動〜消滅・統合を繰り返し、その数も避難者数も常時変動する上に、携帯電話・固定電話ともに通じない地域も多く、状況把握は実際に保健所職員やDMATが訪ねてみないとわからない。寺田先生の歓迎を受け、まだ医療チームがおらず状況把握できていない避難所・釜石市内18ヶ所、大槌町8ヶ所をまわるよう指示を受けた。「Jマット」と記載されていた巡回スケジュール表の我々の名称は(JMATという聞きなれない名称やおそらく45人も本当に来てくれるのかと懐疑的であったのであろう)ミーティング後に「静岡J」と書き換えられ、全体の3分の1を超える避難所巡回を任せて頂いた。以降、マイクロバス2台を釜石班と大槌班に分けて別行動。釜石班は竹内康史班長、大槌班は私が班長をつとめることとした。
  私が向かった大槌町は釜石市に隣接した釜石保健所の管区であり、釜石市内よりも被害が大きく、町長はじめ幹部の会議中に津波がおそったため町の管理機構が失われてしまった状態であった。実際、崩壊した家や自動車がいたるところに散らばっており被害の大きさを実感した。 まずはデイケアセンターはまぎくを訪ねたところ、それまで医師が訪れていないこともあり歓迎された。16名の入居者および職員を診察した。震災以来、降圧剤を内服していない方などの投薬をして終了。その後、2ヶ所の施設を訪ね異常なし(ケアプラザ大槌では大阪市立大のDMATと遭遇、情報交換した)、千田精密(企業)に近所の住民が避難しているとのことで訪問。60名が避難しており、感冒・胃腸炎・高血圧の内服ぎれなどに投薬した。
 そして、最も被害が甚大な地域、赤浜地区にはいる。状態把握のための保健所の訪問を兼ねているため先導してもらって移動するが、予定の道路が満潮で冠水し通れない。一面の破壊された建物の残骸、無造作に放り投げられたような自動車、倒れた橋脚・曲がったレールはかつてここに鉄道があったことをかろうじて教える程度、そして壊れた家屋の上にのったクルーザー。津波の爪痕の凄まじさに立ちつくした。
  2日目、釜石班・大槌班は花巻の宿を同時に出発、二手に分かれてその後合流することとした。釜石班は割り当てられた18ヶ所のうち第1日目に既に15ヶ所をまわって状況把握および必要時の診療を行っており、津波による被害が大きく瓦礫の間の移動もままならない大槌班は割り当てられた8ヶ所のうち5ヶ所をまわっていた(消滅・統合した避難所もあり、残す避難所は前日最後にまわった赤浜小学校とその周辺のみ)。赤浜小学校の避難民は150名で周辺の児童会館・資材置場といった小さな避難所をあわせるとかなりの数に上る。そこで大槌班は赤浜小学校に向かい、釜石班は残る3ヶ所をまわってから赤浜小学校に合流することとなった。
 赤浜小学校は一面瓦礫の町と化した赤浜地区の山側にあり、わずかに高台にはなっているが津波の浸水はまぬがれえなかったであろう場所にある。その体育館がさらにわずかに高くなっていて無事であったらしく、避難者はフローリングの床にシートや布団をしいて生活をしている。既に前日に秋田のDMATがはいっており、夕方の本部でのミーティングで数名の患者さんの薬について私たちに申し送りがあった。それらの薬を届けるとともに、風邪をひいていたり体調の悪い人、降圧剤や普段の薬がもうきれている人などの診療を開始した。近隣の児童会館・資材置場といった避難所にも無線で呼びかけたところ、多くの患者さんが集まった。途中から釜石班が合流したため、2班30名のうち医師16名そのうち同時に11人の医師が診察するスタイルで2時間に107人の患者さんを診療した。我が支援チームがこれだけの人数であったからこそ、時間切れにならず全ての診察希望者を診察しえたと思う。慢性疾患の内服ぎれが多く(カルテの分析では最も多かった疾患は高血圧で多くの患者さんが震災後降圧剤の内服ができず収縮期血圧200mmHgをこえていた)、次に感冒・上気道炎が多かった。幸いにしてインフルエンザや感染性胃腸炎の発生はなかったが、避難所生活の長期化とともに危惧される問題である。不眠をはじめとするメンタルな問題〜PTSDには、駿府病院・池上直美先生によく対応して頂いた。外科・整形外科など様々な診療科の先生方が力を発揮し、移動する総合病院のように機能しえた。
  その後は、大槌町の山側、金沢地区などの集会所・避難所を数ヶ所まわり、午後3時に終了、釜石の対策本部に向かった。やはり瓦礫の間の走行であったり、浸水して寸断された道路のため、移動にはかなりの時間を要した。
  釜石の対策本部で対策本部長の寺田先生に報告・申し送りをして、2日のみの支援活動であることをお詫びすると「とんでもない。ものすごく助かりました。これだけの人数で来てくれて本当に心強かったです。」という言葉を頂いた。避難所を訪ね「静岡県の医療団です」と言ったときの避難者の皆さんの歓迎、診療を終えた時の心からのありがとうの言葉、そして現地医師のこの言葉を聞いた時、私たちの判断は間違っていなかったと確信した。長期滞在型の支援は無論重要であるが、短期間でも現地の災害対策本部(医療)の適切な采配があれば充分に役に立てる。そして、地震発生後の急性期を過ぎた後ならば、病院の災害医療支援の専門家チームでなく一般の開業医でも力を発揮することができる。開業医は地元に多くのかかりつけの患者さんを抱えており平日の診療を休んで支援に行くことはできないが、こういった休日を返上しての短期間での支援ならば参加する意志のある先生方は多い。

久慈班(室井正彦班長のレポートによる)
  前日の宿より東北高速道をひた走って、二戸I.Cより地方道を久慈市に入る。やや寒々として東北のいつもの風景が続く中、市合同庁舎の中にある久慈保健所に到着。整然とした立派な6階建ての建物は損壊もなく、あっけにとられる程普通にエレベーターで4階会議室へ通された。
  久慈医師会の鳥谷先生や久慈病院の皆川先生、佐藤保健所長が休日にかかわらずお迎え頂き、現況をお教えいただく。9mの中型バスにまずびっくりされた様で、このバスではとても村内を巡回する事は出来ないですよと、やや呆れられてしまった。
  この辺りは事前の情報不足で、久慈市内は特に被害もなく医療システムも一次二次救急体制も通常通りであり、現時点ではどうにか大丈夫であるとのことで、久慈市の救援ではなく、事前に陸の孤島と言うことで自衛隊に持って行ってもらう予定であった野田村へそのまま向かうことになった。近づくにつれて道端の瓦礫の量が増え、村に入るとテレビ画面と同じ光景が飛び込んで来た。被災後11日目の状況は、家を失くした村民638名が、各11ヶ所の救護所に分かれて避難所生活を強いられていた。
  村内の高台にある、野球場のベンチを利用した救護所が設営されて、奈良日赤の救護チームが継続されていたものを、引き継ぐ形で始められた。全く違う体制のチームが医療を引き継ぐ時、継続性をどの様に保たたせるかが今後の問題となる。そしてとても大きな問題が、現地の保健師、看護師、介護スタッフ及びかかりつけ医との連携である。野田村は開業医の先生がお一人で通常診療から在宅医療まで全て荷って居られた様で、津波で一瞬にしてカルテも聴診器1本さえも失われたと聞いた。同じ開業医であり、少しでも何かのお役に立てればと素直に思った。
  それにしても、村唯一の開業医の押川先生に対する村のお年寄りの信頼は絶大なもので、“オラ押川先生がいいよ〜”と言う声を何度聞かされた事か。話を聞いていると救護所を手伝ってくれている押川医院の看護師さんたちも、家が全壊して避難生活を送っているとの事で、明るくお年寄りたちを労わりながらこの人も被災者なのだとびっくりしてしまった。時々物悲しくされるのを見ると詳しくお話しをお聞きすることができなかった。
  救護所に来られる方の中に、最近はよく眠れないとお話しされる方が多い。各避難所への巡回診療も問題は時間の様であった。日中の明るいうちは動ける方は全壊した自宅の方へ行って、整理をしているので救護所にいない。皆さんが帰って来られるのは夕方日が傾いてからである。
  しっかりとアナウンス(情報)が徹底してないと、殆ど人の居ない救護所を回る事になる。逆に国民宿舎がお風呂となっていた為、送迎バスが着くたびに、引きも切らずに診察希望の方が並ばれる事があり、担当の先生は、少し離れたその救護所に泊り込みとなった。
  他の救護所を回った先生方も一旦戻られてから、また皆さんが戻られた頃合を見計らって再び出かけたため、救護所終了は21時30分となった。久慈第1ホテルに入ったのは22時となっていた。就寝(たかぶって良く寝付けなかった)。
  第2日目は、皆様が活動し出す前に我々もと、6時起きで6時45分朝食。7時10分に合同庁舎で救護の薬剤を受け取って出発。7時45分救護所到着して、薬剤を降ろしてから役場へ行って静岡から持って行った救護物資を受け取ってもらう。昨日の事もあって救護所に集まって(遠くで宿泊した向井英之医師・成瀬勝医師も早朝より診療を頑張られて、朝飯前の一仕事となった)
  保健師・野田村の看護師の二人も含めての1日の行動のスケジュールを決めた。それぞれ地元の顔見知りの人とチームを組んで対応することが、とても大事ではと思われた。急性期の対応は一段落している。普段と変わりなく診療してもらえるのがありがたい、顔見知りの人がいるだけで安心できることが解った。

合流〜帰還
  いわて花巻空港に到着したのが午後7時、久慈班と合流し、同時期にDMATで岩手県に展開していた静岡県立総合病院の大場医師らも合流してFDAチャーター機で帰路についた。富士山静岡空港に午後10時頃に到着、遅い時間にも関わらず静岡県医師会長・鈴木勝彦先生、副会長・篠原彰先生や県庁の皆さんが迎えに来て下さった。

帰還後
  支援より戻った翌日、私は鈴木県医師会長とともに静岡県庁を訪ね、川勝静岡県知事への報告・大村副知事への報告とともにマスコミ各社の取材を受けた。 平成23年4月1日には、今回の派遣団とサポートして下さった清水医師会の先生方で報告会・反省会を行った。
  集計では、今回の45名の派遣団(医師24看護師9薬剤師1他11)(久慈・釜石・大槌町の3班構成)で、2日間に33の避難所をまわり、405名の患者さんに投薬や処置を行った。
・なんといっても被災地で支援を受ける側の采配が重要。釜石の災害対策本部は全国から数日間の日程で集まった支援チームの活動や派遣場所を指示し、持ち帰った情報を毎日集約し朝夕のミーティングで全チームに伝え、チーム間の連絡や引き継ぎの場でもあった。ある県の支援チームは本部に連絡なしに活動したため、他のチームと避難所訪問が重複したり無駄の多い支援になってしまっていた。また、最小単位の対策本部は「〇〇小学校」と言われてすぐにわかる範囲でなければ機能しない。
・携帯電話がめったに通じない現地での連絡手段:医師会の固定設置型のインマルサット衛星携帯を急遽持参したがイリジウムとは異なり移動中には使用できない。場所によって短時間つながることのある携帯電話回線で、通話ではなくメールやショートメッセージでのやり取りが有効。(これを受けて清水医師会グループウェア DtoD Shimizu ではログインしなくてもメール送信で一斉配信できる仕組みや安否確認のための位置情報収集システムを実装した)
・医療情報の引継ぎのためのカルテ統一仕様が望ましい(2024年執筆修正時ではJ-SPEED等始まっている)

  最後に、印象に残ったこととしてあげておきたいのは、現地の人々の笑顔である。無論、涙はあったが、避難所の人々は皆笑顔で私たちを迎え手を振って送ってくれた。リヤカーで無邪気に遊ぶ子供たちの笑い声も聞くことができた。よく写真で紹介されるクルーザーが屋根の上にのっている家屋、その傍に住んでいた女性に会った。家族と外出していて助かったという。現在避難しているという山側の祖父母の家に、彼女の運転する車で往診した。瓦礫をかきわけて車を走らせてゆく姿にたくましさを感じた。避難所への下着の配給はまだ少なく抽選である。その抽選の結果が出るまでに集会場に戻らないと、と微笑った。
  3月、まだところどころに残雪のある、春まだ浅い大地にやがて緑が芽吹く。 この町の復興と再生は始まっている。

謝辞
鈴与(株)の皆様に心から感謝致します。皆様の最初の対応がなければFDAにお願いするこの話はありえませんでした。FDA(株)の皆様には、通常の運航地でなく夜間であるにも関わらず、安全に私たちを現地に運んで頂き、無事家に帰して頂きました。わずかな期間での関係各部署への調整や諸手続きを仕上げ、今回のプロジェクトを可能として下さった静岡県健康福祉部をはじめとする行政の方々に深く感謝いたします。

平成23年3月23日
静岡県医師会医療チーム岩手県派遣団 団長 静岡市清水医師会理事 吉永医院 吉永 治彦

追記
震災翌年の平成24年2月25日には、釜石災害対策本部長・寺田尚弘先生と陸の孤島と化した野田村で自身の診療所を失いながらも診療を続けられたおしかわ内科クリニック・押川公裕先生に清水においで頂き、清水医師会学術講演会「その時、医師たちは〜3.11東日本大震災 被災地での医療の維持と再生」を開催した。押川先生が「皆さん(私たちが)感謝してるだろうなと思っていると思いますが、それ以上に感謝してるんですよ」とおっしゃった笑顔が印象的だった。

医療法人 社団永仁会 吉永医院
Eijinkai Yoshinaga Clinic
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